午年に「血統」の物語について考えてみました

2026年、令和8年を迎えました。昨年は、予定していたお仕事がいろいろと遅れてしまったので、午年の今年前半は、付き馬のように、その回収にあたることになりそうです(笑)。

話しは変わりますが、昨年末のTBS日曜劇場「ザ・ロイヤルファミリー」は、ずいぶんと評判になっていましたね。競馬シロウトの私でも、馬と馬主における血統と夢の物語に、目頭を熱くしながら観ておりました。

このドラマを観ながら、つらつらと考えたのですが、競馬に熱中する方々って、単なる勝負事やお金儲けのギャンブルに熱狂しているだけじゃないんですね(人にもよるとは思いますけど..)。サラブレッドを主とした競馬馬の血統、さらには騎手の親子関係、馬主を含めた様々な継承の物語りに想いを寄せているんだなぁ、と実感しました。

ただ、血統への過度な期待、もしくは異常な妄信って、あまりよい結果を生まないと思うんですよね。競馬馬とか畜産動物など、限定された条件下での成否を明示的に判定できる事象でしたら、よりよい遺伝子をかけあわせることで、望ましい資質を進化・発展させていくことも可能だとは思います。
しかし、この考え方を、そのまま人間社会に当てはめようとすると、たいていロクなことにならないんですよね。古代ギリシアでの都市国家スパルタの衰亡、ナチスによる人種隔離政策(その帰結としてのホロコースト)、現代社会でも残っている優生学的な考え方、などなど。昔から「氏か素性か」って議論はありますけど、そもそも生得要因と環境要因の弁別なんて、無理な話しだと思いますよ。

でも、人って、善悪に関係なく様々な原因を「血統」に求めることが多いと思いませんか。
「あの高潔な人柄は、やはり由緒正しい家柄を感じさせる」
「あの会社の上層部は、親族経営だから経営が傾いたみたいだよ」などなど
ただ、このような理解の仕方って、わかりやすい原因を「血統」に結びつけて、思考停止しているだけのような気もします。「血統」って、問答無用に人を納得させる理由付けになるんでしょうね。

江戸川柳に
「売り家と 唐様で書く 三代目」
という句があるそうです。商家の三代目が、家を保てなくなり、父祖代々の店を売りに出した時、「売り家」と書いた筆使いが唐様(からよう)という流行の書体だったとか。インテリ文化人ではあった三代目の悲哀(もしくは呑気さか)と「商家は三代と保たない」という庶民側の揶揄が感じられる一句だと思います。ここに「血統の継承」なんて、一種の幻想じゃないかな、と感じるのは私だけでしょうか。