先月末に前年に引き続き、今年も下水道業界の一大イベント、下水道展のブース設営・運営サポートに行ってきました。今回の開催地は大阪でした。



お仕事はつつがなく済ますことができ、開催場所が大阪万博の近くだったこともあり、仕事終わりに万博にも寄ることができました。評判通り、すごい人で、数えるほどのパビリオンしか見ることができませんでしたが、そこそこ楽しめました。
ただ、歳のせいなんですかね、幼少の頃、興奮しながら訪れた、つくば科学万博(1985年開催)のときのようなワクワク、ドキドキ感はありませんでした。
これらのお仕事前なんですが、念願だった司馬遼太郎記念館にも立ち寄ることもできました。記念館は、ご遺族?+地元の有志ボランティアらしき方々で運営されていて、いかにも大阪市井の作家に終始された司馬さんらしい、親しみやすい空間でした。


司馬さんの作品ですが、個人的には10代後半〜20代後半ごろまで、ほぼ全てを読破して熱中したものです。その冷徹で客観的な筆致、明るく合理性を愛する明確な作風には、さまざまな影響を受けたといえます。それらの作品を生み出した膨大な資料・書籍が記念館の壁を埋め尽くしている様を見ると、これまでの自分の生き方を含め、さまざまな感慨を抱く時間でもありました。
ただ、いつごろからだったか覚えていないんですけど、司馬作品から少し距離を置くというか、ちょっと冷静に見始めた時期があるんです。
これは知人から聞いた話しなんですが、とある街の市民講座で「司馬文学と史実の違い」とかいった題目で、歴史学の教授が講演することがあったんだそうです。それなりの聴講者が集まったそうなんですが、公演の途中で参加者のご老人が立ち上がって
「司馬さんの書いていることは、全て事実だ! あなたの言っていることが間違っている!」
と叫んで、会場が騒然としたことがあったとか。司馬さんの作品って、そんな中毒性というか、これこそ真実!って信じ込ませる魔力があるんですよね。
ただ、司馬さんって、大衆小説家なんですよね。読者が喜ぶように、ある程度、事実を膨らませたり、史実を取捨選択してストーリー展開をよくするような工夫(もしくは創作)はしているようなんです。それを踏まえた上で、あくまでも娯楽小説として読むのが、司馬文学への適切な(というか健康的な)接し方なんじゃないかな、と今では思っています。
万博にせよ、司馬文学にせよ、そのときの年齢だからこそ、興奮して熱中できるものってあると思います。それが過ぎ去ると、ウソのように「あれって何だったんだろう?」って寂しく思い返す不思議な感覚…。真夏の太陽が照りつける難波の街で、そんな思いにふけっていたんですけど、おそらく司馬さんに、その思いを伝えたら、
「あなたが、そう感じるんなら、それでもいいんじゃないですか(笑)」
と言ってもらえるんじゃないかな、という妄想をしながら、大阪を後にしました。